本来は引き分けで終わるゲームに勝敗ができるのはどういうわけでしょうか? そうバランスを崩した手を打った側ということになります。もう一方で、バランスがずれた手を打った相手に対して、正しい咎め方ができなかった側ということになります。双方最善を尽くして引き分けで終わることが果てしなく困難であるがゆえに、双方バランスからずれつつ、間違い争いをしてきたのが人間の打つ囲碁であり、それが人間らしい面白味であるとも言えるのです。
アマチュアから見た囲碁という未開拓ゲーム
プロやトップアマの先生の立場からは、強いというプライド、勝ってこそ囲碁というプライドは人生観において譲れないというブログコメントを多々目にします。所詮相手は機械に過ぎない(機械ゆえの限界がある)ということでそこを乗り越えるのだろうと思います。
私はアマチュアですので囲碁に対するスタンスは、「必勝原理、法則」、すなわち「数理的合理性」という興味です。そこは若干違うことに気付きます。負けることでも何らかの新しい合理性を発見するとうれしいものです。(もちろん勝つことを目標に一局打っていますが。)
Alpha碁は相手に応じて次の手を選択しますが、それは確率的に勝率が相対的に良い手であって必勝手ではありません。その思考パターンに見られるのは、難解な不安定性を避けることです。できるだけ分かりやすい道を選びます。それが終盤に強いゆえんなのでしょう。
そこでよくよく考えてみますと、囲碁というゲームにおいて数理的にはっきり正しいと言える法則があること、あり続けてきたことに気付きます。先に打つ黒が必ず勝つゲームであることと、白黒双方最善を尽くした結果の差の目数は近似的にはわかっていること(6目〜7目くらい)です。
すなわち、一手づつのやり取りにおいては、勝つ手を打つのが囲碁ではなくて、等価値を分け合って盤上6目から7目黒が多い結果への道を双方選択しているのが囲碁であるということです。
この考え方は歴史上の棋聖と言われた名人たちが残しています。呉清源先生は「碁は調和である。」とおっしゃいました。高川秀格先生もそれに近い考え方でした。あるいは武宮先生は「広いところから打つのが囲碁です。」とおっしゃいます。勝つことへの血みどろの修行を乗り越えた境地に囲碁の本質が見えるのだと思います。
すなわち着手のバランスです。どちらか一方にのみ有利な着手という法則はなくて、双方が等分に終わる着手こそが数理的に最も正しい手だということです。Alpha碁の打ちっぷりはこの基本的な法則に立ちもだらせてくれました。
すなわち黒番であれば6目勝ちか7目勝ち、白番であれば6目負けか7負けとなる道を考えるのが数理的に正しいと思います。すなわち引き分けを目指すゲームだということです(引き分けにならないために半目をつけたのです)。ただし、コミが6目か7目かはまだ証明できていません。
云々