2016年12月02日

小学校のタブレット授業

日常に感ずる未来縮図

小学校のタブレット授業


小中学校の初等教育におけるICTの導入については、文部科学省、総務省が率先して一人一台(PC、iPAD)を採用する自治体が出てきているようです。あるいは、コンピュータ室を持つ小中学校が出現し、民間企業と連携した実証試験授業が各校で繰り返されているようです。高校、大学や学習塾、予備校でのICTの活用は進んでいるものの、初等教育では教師と児童の対話の重要性が高く、まだまだこれからというところでしょう。

ICT技術は具体的には、画像や動画を用いる科目、音声を用いる科目、動きを伝える科目などに適しており、算数(図形)、英語、物理、生物、宇宙天文、地学、地理、音楽、美術などでは実用化も部分的に進んでいるようです。一方では、紙書き単純計算練習や板書などの労力節減やミス防止などでも効果があると個人的には思います。やがては手書きノートの時代は終わるのでしょうか? 書道や習字など文字を書くという文化、すなわち紙の文化が衰退するのでしょうか? 漢字書き取り練習は将来も継承されるでしょうか?さらには手書き回答型のテストは無くなるのでしょうか?

私個人としては、現在の幼稚園や小学校授業を体験しておりませんが、公文塾会場を18年間開いてきた経験もあり、囲碁レッスンにおいては、幼稚園児、小学生と延べ200名以上と30年間接してきておりますし、現在ではインターナショナルスクール(海外授業)生徒と接しておりますので、自分なりに感じていること、考えていることを以下にまとめてみました。(公文や囲碁のPRも含まれている点、ご勘弁下さい。)

公文塾では、小学校での英語授業開始を見据えてeペンによる英会話テストをいち早く導入して好評を得ています。ペンを耳にあてると世界標準の英会話が聞こえますので、それを聞いて発声したり、質問に答えたり、書き取ったりします。日本人教師の話す英語では海外では訛り言葉になってしまうこともあり、あるいは欧米人教師の英会話に慣れたとしても(日本人の英会話よりはマシでしょうけど)、英米豪欧など地域や国によりイントネーションがかなり違うために、標準英語会話(英国標準)に接するのはICTが最も適している事例であると言えます。

囲碁においては、日本棋院が学校普及事業(現在では親子伝統芸能教室事業)のためにタブレットやiPAD、スマートホーン用のアプリ「囲碁アイランド」を開発して提供しており、誰でも手軽にタブレットレッスンを受けることができます。現在は幼稚園年中、年長の幼児への囲碁入門に利用しており、生徒たちはたちまちに夢中になります。石を取り上げる動きと、正解の時のアニメ、誤答の時のアニメが面白いようです。大人でも夢中になってしまいます。ゲームの画像の動的な動きの表現はタブレット授業には効果的です。これがあると入門初級者向けの囲碁教師が失業してしまうのではないか? あるいは人間がやる囲碁レッスンの回数が減り、すべてタブレット授業でいいのではないか? という懸念もあるわけなんですけど、そうはならないのは、タブレット授業ではできないものがあるからなんでしょうね。AI相手の問題回答や対局と人間相手の問題回答や対局では、決定的に違いがあるからなんでしょう。そこのところを最近探っていくうちに・・・・
ついに、気が付きました。


「意思がない。」(石との洒落ではないですけど・・・)

これに尽きます。逆に言いますと人間が正解を得ようとしたりゲームに勝とうとするのは意思があるからなんです。人間の感情をAIが表現したり理解したりすることは可能なのは凄いことですけど、根本にある意思が現状の第三世代AIではないことが決定的に違うんですね。

哲学的には「主観的思考がAIにできるか?」ということだと学びました。


つまりは、人間教師がやる授業には意思があるから違うんですね。AIやICT授業は便利で感情的にも楽しくて効果的なんですけど、何のために学ぶのか? 何のために勝ちたいのか? 何のために優れた人になりたいのか? その動機たる意思は、人間にしかないですし、人間同士ならではの動機付けがあるんですね。仏教でいう因果因縁ということです。キリスト教でいうと「愛」ですね。

機械にはそれがない、というか機械ならではの動機や意思はあるんですけど、そこが人間とはあまりにかけ離れているのです。すなわち機械やAIの持つ動機や意思とは、電池が切れたとか、プログラムが35階層だとか、枝分かれが1憶通りだとか、そういう条件づけという因果因縁なんですね。その大本を人間が条件づけしています。もちろん条件付けする人間がAIの出した知見に影響を受けているとしたら、そこには人間を介した機械同士の因果を含む現象が起きていくことも否定できません。そして、やがては人間を介しない機械だけの因果が出来上がってしまうのではないか?  その因果が人間には理解できなくなるというシンギュラリティ問題があって、だから人類を滅ぼすと危惧するホーキング博士のような天才の警告もあるわけなんです。


もちろん、人間の主観とは何か? という哲学的問いも文明が始まってからずうっと考えられて続けられているので、主観の定義がAIによって変わる時代も起こりうるのかもしれませんし、その前に人類はAIのスイッチを切ってしまうのかもしれません。



原発とAIがとても似ているのは、便利で優れているために、依存してしまうと辞めることができなくなってしまうということです。例えば、原発を廃炉にするにしても核燃料の処理処分ができない状況ですとか、AIが動かいないと治療中の患者が死んでしまうとか、交通がマヒするとか、そういうレベルまで科学文明に依存してしまいますと、スイッチを切るのもイバラの道になりかねません。

最も怖いのは、スイッチを入れたままでも滅亡の道、スイッチを切っても滅亡の道というところまで依存してしまうことでしょう。

スイッチを入れるのも切るのも人間の主観ですね・・・・。

取り留めのない雑感で失礼しました。
posted by きんちゃんブログ at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする